法 話
   第1の章
   第2の章
   第3の章

 

 

 



仏法は、生死を超えた仏の教えです。
生死去来、死を迎える矛盾を受け入れ、生きる苦
しみ、諸行無常の人生を歩むには、現世で活仏
であらねばなりません。
盤珪国師が示されたのが 「不生」 です。
人は皆、生まれながらにして、親から具えられた
は「仏心」のみで「人は、仏になれる妙知を持つ」
と諭されました。
己のなかにある「仏心」で暮らしなされ、仏心は
「霊明」に極まり 有難いことでござらぬかと語れ
ています。
 不生は仏心なり、仏心は不滅なり。 
自らが、背負い、悩み、苦しみを味わさない信念
からうまれた 盤珪国師の説かれた「不生の仏心」
はいのちを輝かせて、人生をおくる思想です。

 


 

 

 

龍門寺・盤珪国師
                     開山堂 盤珪国師350年の法灯を祀る
   



    盤珪さんとは、正式には「大法正眼国師盤珪永琢禅師大和尚」と申し上げるのですが、
通称、人びとは“盤珪さん”と呼び親しんでいる方です。
江戸時代初期、元和8年(1622)現在の姫路市網干区浜田に生まれ、72歳で元禄6年(1693)網干、龍門寺
で示 寂されました。その教化は播州を主に、江戸、四国、九州にまで及び、
得度を受けて弟子となる者四百余名、法名を授かって在俗の弟子の礼を取る者五万余人と
行業記にありまして、“生身の釈迦”と仰がれたのも、むべなるかなと、誠に驚かされます。
当時の江戸幕府は、キリシタン禁制に加えて、仏教も新寺建立を禁じていましたので古寺を再興するしか
なかったのですが、このような時代に、廃寺を復興すること四十七ヶ寺、
勧請されて開山となる寺は百五十ヶ寺とあり、如何に盤珪さんが尊崇されていたか伺えます。

 
   
       
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1678
1682
1688
1690


1693
(元和 8)
(寛永10)
(寛永12)
(寛永14)
(寛永15)
(寛永18)
(正保 2)
(正保 4)
(慶安 1)
(慶安 4)
(慶安 5)
(承応 3)
(明暦 1)
(明暦 3)
(万治 2)
(寛文 1)
(寛文 9)
(寛文11)
(寛文12)
(延宝 2)
(延宝 3)
(延宝 6)
(天和 2)
(元禄 1)
(元禄 3)


(元禄 6)
  3.8 播磨(兵庫)浜田郷の儒医の子として誕生
郷塾で『大学』の句「明徳を明らかにする」を疑う
生家菩提寺の西方寺で寿欣上人より浄土の教えを学ぶ
近郷の稲富山円融寺の快雄法印より真言の教えを学ぶ
赤穂の臨済宗随鴎寺の雲甫全祥に得度、永琢と改名
「明徳」の疑問が解決せず、4年間の初行脚に出る
赤穂に帰り、野中の草庵にて昼夜不臥の三昧に没入
苦修のため瀕死の重病となるが、梅香をかいで大悟
美濃(岐阜)地方に再行脚。3年間、玉竜庵に住する
長崎の崇福寺にいた明僧の道者超元のもとで修行
省悟し、道者の証明をえて帰郷、のち吉野山に入る
岡山の三友寺に赴き、陽明学徒と対論し、承服させる
超元と再会、平戸藩主の松浦鎮信より敬信せられる
11月、牧翁祖牛(雲甫の法嗣)より印可を受ける
妙心寺前版職となり「盤珪」の道号を称する
郷里の浜田に天徳山龍門寺を創建し、開山となる
大洲(愛媛)藩主が如法寺を創建し、盤珪は開山となる
如法寺の奥旨軒に20余名の弟子と籠り、参究させる
妙心寺第218世として紫衣を賜わり、開堂式を行なう
京極侯など、江戸詰め諸侯、師に禅要を問う者多し
丸亀(香川)の宝津寺の入仏供養に出る
養性院の発願で江戸麻布に光林寺を創建する
山科(京都)の地蔵寺に150人とともに冬安居の結制
平戸の松浦侯の請により、普門寺で60人と安居
2月 東山天皇より「仏智弘済」の禅師号を賜わる
8月 丸亀宝津寺にて説法
9月 龍門寺の大結制(1300人)
3月 美濃、名古屋を経て江戸へ
6月 龍門寺に帰る
8月 最後の説法をし、9月3日に入寂する

 
  盤珪誕生の碑
盤珪誕生の碑
  義徳院 義徳院  
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